ウエストサイドスト−リ−とミスタ−タンブリンマン |
時代は少々前後してしまうが、音楽との出会いに触れてみよう。 小学校低学年の頃から歌は大好きだった。ただし渋い流行歌ばかり好んで歌っていたようで 水原弘の「黒い花びら」やフランク永井の「有楽町で逢いましょう」とか 果ては三橋美智也の「古城」まで、鼻をたらしたガキが生意気にも・・である。 が、ラジオから聴こえて来るその時代の流行歌はポップスそのものであり、 当時としては仕方のないことだったのだろう。 洋楽を初めて耳にしたのは、姉の買って来たレコ−ドだったと思う。 いま思えば、詩や音楽に携わるようになったのも姉の影響からだったのだろう。 彼女には文才があり、さまざまなコンクールで入賞して地元では有名な存在だった。 部屋には無数の書籍が積み重なり、思想も理論も頑固なまでに自分の信念を曲げない人でもあった。 我が家に初めてレコードの音が鳴り響いたのも、彼女が購入してきたアルバムだった訳で 『ウエストサイドストーリー』‥これは耳にタコが出来るほど聴かされた。 おかげで僕は「ボオイ、ボオイ、クレエジッボオイ、ゲックーボオイ‥」と言った具合に 10歳頃には謎の片仮名を頭に描きながら「COOL」を歌うようになっていたほどだ。 「トゥナイト」や「アメリカ」も同じように覚えては歌っていた。 ただ、明るい曲はそれだけで、他はどれも西欧の悲しく切ないメロディの曲ばかりだった。 『鉄道員』『メンデルスゾーン作品64番』など、当時の映画音楽が主だったようだが 擦り切れるまで聴いていた彼女の脇で、メロディの殆どを覚えてしまったことは言うまでもない。 僕が中学に入った頃、彼女は家を出て東京で文筆業を始める。 一人になって、孤独な時間を紛らすために姉の書棚に残されていた本を数冊めくってみたが どれも難しすぎて、読む気の起きない物ばかりだった。 ただ、唯一の漫画同人誌『ガロ』を見つけて、林静一の「ねじ式」を夢中で読んだ。 毛筆漫画?と呼べそうな、不思議な画風に釘付けになったことを覚えていて 後年、はっぴいえんどの1stアルバム『ゆでめん』が世に出たとき そのジャケットに林静一のイラストが使われていたことから 当時はまだ無名だった彼らの存在に、いち早く気付く要因となったのも不思議な縁であろう。 (注:「ねじ式」の作者が、つげ義春であることに気付いてなかった) しかしながら、それはかなり後の話であって、65年頃の我が国のミュ−ジックシ−ンと云えば ラジオから流れ出るのはエレキバンドのテケテケ音くらいしかなかったほど劣悪な状況だった。 そんなときに現れたのがRIEKOである。 ガソリンスタンドの社長令嬢だったRIEKOが、洋楽のレコードを何枚も貸してくれたのだ。 彼女が最も好きだったビートルズの他に、当時ヒットしていた曲を幾つも聴くことが出来た僕は バーズの『ミスタータンブリンマン』と『ターンターンターン』のカップリングを夢中で何度も聴いた。 田舎でメジャーだったのは、ベンチャーズを筆頭にしたインストバンドばかりだった時代なので 周囲の殆どは知らない歌だったに違いない。 中2の秋に初めてバンドを組んだときも『パイプライン』や『ワイプアウト』を演奏することなく のっけから(歌もの)をコピーしてはパーティーの前座で歌っていた。 言葉を忘れてしまうような環境に慣れてしまい、すっかり無口になっていた僕にとって 音楽、とりわけ【歌う】ことで自身を表現することに目覚めた喜びは、とても大きかったのだ。 やがて高校へと進んだ僕はエレキギターをアコースティックに持ち替えて、自らの言葉で歌を書くようになって行く。 前述のRIEKOとは高校も同じだったが、僕がつまらない女と付き合い始めた頃から遠ざかってしまった。 センスの良い音楽を提供してくれたり、僕が演奏するときには必ず駆け付けて応援してくれたり お互いを一番よく理解していた筈なのに、二人とも偏屈で素直ではなかったことが 意に反して距離を遠ざけてしまったようだ。 自由で恵まれた生活を送っているように見えた彼女も イイトコのお嬢様で、厳しい母親の目がいつも光っていたことも無縁ではなかっただろう。 町を離れるときのラストコンサートにも彼女はやって来なかった。 本当は誰よりも来て欲しかった相手だし、以前なら必ず客席に居た筈の彼女だが その夜は現われることなく幕は閉じた。 が、むしろこれで良かったのだろう。その後、何ひとつ思い残すことなく、この町を後にできたのだから・・ さよなら さよなら 明日この街を出ようかと思います きっと君は来ないだろうから 一番列車の汽笛になります さよなら さよなら 小っちゃなつまらない街だったと思います 何故って愛した人はひとり 君だけだったんですから 【さよなら 70.12】 |